2014年(8月)の健康診断の結果から、健康に注意するように導かれました。
それ以後は健康に氣を配る生活を続けているのですが、過去に健康に関する不思議な体験をしていた事を思い出しました。
その体験について書きます。
始まり
それは、大学一年の時の話です。
ある日、右ふくらはぎ に軽い痛みを感じ、見てみると少し腫れているような感じです。
「知らない内に、どこかにぶつけたのかな?」と思いながら、ほっときました。
翌日になると前日より腫れも大きくなり、痛みも少し強くなってきました。
観察をしてみると打撲という感じではなく、膿んでいる様な感じです。
「打撲ではなく、傷が化膿したのか?」と思いましたが、傷を負った記憶は全然なく、調べてみても傷は見当たりませんでした。
「理由は分からないが、数日すれば治るだろう」とお氣楽に考えていました。
しかし、希望的予測とは裏腹に、少しずつ少しずつ腫れは大きくなっていき、遂にふくらはぎ全体に広がり、歩くだけで痛みが出てくる様になりました。
我慢が出来なくなり外科に駆け込み、医者に「膿んでいるようなので、切って膿を出します。」と言われ、ベッドにうつ伏せに寝ました。
メスで切るので「部分麻酔をしてから切る」のだろうと思っていたのですが、いきなり切るのですね。ビックリしました。
切る以上に痛いのが、膿を搾り出す事とその後の消毒です。
痛くて痛くて「ウガー!グゲー!」と心の中で叫んでいました。
処置が終わった後、「原因は何のなのか?」と尋ねると、「はっきりとした原因は分からない」と言われました。
「原因は分からずか・・・」と落ち込んだのですが、「甘い物は好きか?」と問われ、質疑応答を通して「甘い物を控える」ように助言を頂きました。
子供の頃から、好きな処ではなく”大・大・大好き”のレベルです。
- 菓子(菓子パンも含む)が大好き。特に(白)砂糖たっぷりのチョコレート系。
- 珈琲にも白砂糖を2,3杯入れ、一日に何杯も飲む。
特に、週末に菓子と珈琲をセットに漫画を読むのが楽しみででした。
高校までは実家に居り、親の目があり好き勝手には出来ませんでしたが、大学生になり一人暮らしを始めたため、監視の目がなくなり量が増えたと思います。
ちなみに、借りていた場所は食事付きでしたので、食事は乱れてはいませんでした。
生活習慣を改善
このまま「甘い物」を取り続けていれば、同じ痛い思いを繰り返すので、この日から、少し菓子を控えると共に、珈琲をブラック(無糖)に変えました。
甘い珈琲から無糖の珈琲に変えるわけですから、最初は苦いだけで「なんだ!この不味い飲み物は!」でした。
しかし、2週間後位には無糖を美味しく感じる様になり、無糖に切り変える事が出来ました。
慣れるまでが大変ですが、やはり、慣れです。
変わります、変われます。
再発
最初の膿の処置を終えてから、何日経ったかは覚えていませんが、再び膿が出来ました。
今度は小さいのが数個で、しかも、場所が悪すぎます。
しかし、放置していても悪化するだけですので、恥ずかしいのですが直ぐに病院に行きました。
自分で膝を抱えて「金太の大冒険」を見せる恥ずかしい恰好をしながら、切開です。
膿出しとその後の消毒の痛さの再来です。
医師は男性なので良いのですが、看護師さんが女性でしかも若く、一人は少しタイプだった(笑)事もあって、滅茶苦茶、落ち込んだのを覚えています。
しかし、今となっては良き思い出です。(ホントかよ?)
成長を確認
処で、この恥ずかしいという感情は自分目線であり、エゴと言えます。
医師や看護師さんにとっては、仕事とは言え、見たくもないものを見て、触れたくないものを触れて処置をして下さったので、非常に感謝です。ありがとうございました。
このような感情(考え)を持てる(氣付く)ように成長できた事に、感謝と共に喜びを感じます。
再再発
前回と同様に何日経ったかは覚えていませんが、三度目の膿が臍の下に発生です。
「またか!」という感情と共に「何時、終わるのだろうか?」と怖くもなってきました。
今はこの三度目の膿を考えなくてはならないのですが、ある考えが浮かびました。
それは、「病院に行っても麻酔なしで切られるのなら、自分で切開するのも同じ様なものだ」です。
そこで、自分で切開して膿を出す事にしました。
カッターをライターで炙り、その後に消毒液で消毒をして、意を決して「いざっ切開!」
しかし、痛くて、映画やドラマの様に「スパッ!」と切る事など出来ず、軽く傷をつけた程度でした。
その時に思った事は、「武士は凄い。凄すぎる!」と言う事と同時に「戦国時代の武士でなくて良かった」と安堵した事です。
また、切開が出来ない自分のヘタレさを痛感させられました。
状況によっては病院に行こうと思いながら、化膿止めの薬をガーゼに塗って傷口に貼って終えました。
翌日になると、浸透圧の影響なのか膿がある程度出ていて、膿が小さくなっていました。
そこで、この処置を暫く繰り返していたら、膿がほとんど出てきたので病院に行かずに済みました。
完治
3回目の膿の後は発生する事はなくなり、無事、完治しました。
そして、それ以後もこの不気味な症状は出ておりません。
毒を排出し続けていたが、体が悲鳴を上げて、体表面に現れる迄に来ていたと言う事は限界に近い状態だったと思います。
そうです、自覚症状が出る時はかなり酷い状態である、と言う訳です。
やはり、最初の発症後に直ぐに「生活を改善」した事が良かったです。
もし、同じ様な生活を続けていたらもっともっと苦しむ出来事が待っていて、改心するまで続く事は想像に難くありません。
殆ど人は、苦しみを体験しないと改心→改善ができませんね。
人民改心させるには、苦しみ必要であったのじゃ。
見聞きさせ味わわせねば、人民真分からんから、苦しみ逃れられんのじゃぞ。(P98)出典:大日月地神示「十八」2016年01月13日(P97)
分からぬ者は苦しみ通して学び、改心いたさねばならんのじゃ。
ゆえに苦しめるのぞ。(P107)出典:大日月地神示「十九」2016年01月15日(P104)
しかしながら、この時点で食という生命の基本を見直す事が出来ず、それに至るには更に約30年もの年月が掛かりました。
それは、大日月地神示に出てくる「分かる器」ではなく、「経験が足らず、考えに至る事ができなかった」からです。
成長するのに、自分にはそれ程の年月が必要だったという事です。
分からぬ者はまだまだ分かる器ではなかったのであるから、皆々因果ぞ。
いくら背伸びいたしても学び足らぬゆえに分からんのであるから、おのおの身の丈に応じた学びをさせて来たのじゃぞ。(P41)出典:大日月地神示「六」2015年10月27日(P38)
身の丈に見合った姿となりますのじゃ。
分からぬのはまだ分からん者であるのぞ。
必要に応じて一つ一つ学ばせ、分かるようになって参りますのじゃ。
分からぬ者はまだ分からぬで良いのじゃ。
恥ずかしいことないのじゃ。
時来たりて必要に応じて分かるようになるから、うれしたのしであるぞ。(P144)出典:大日月地神示「二十五」2016年02月25日(P142)
今になってみると、点と点との繋がりを感じます。
より善き存在に変わるために、全ては必要・必然である事が腑に落ちます。
経験させて頂き、学ばせて頂き、ありがとうございます。
感謝!感謝!大感謝!
伝えたい事
食生活という因が、謎の不気味な症状という果を招きました。
正に因果の法則通りです。
体は日々摂取している食物から出来ている!
この当たり前の原則を、当たり前すぎる故に認識できていない人が多いと思います。
私もその一人でした。
この時には氣付く事ができませんでしたが、約9年前になってやっと氣付く事が出来ました。
あなたが購入・使用している食品の原材料を意識していますか?
原材料は、素材の量が多い順に記載されています。
その食品の最初の項目は何ですか?
私が好んで食べていたチョコレート菓子の最初は「砂糖」でした。
しかし、比率は分かりません。
10%かも、25%かも、ひょっとしたら50%以上かも?
もし、そうなら菓子を食べていると言うより、砂糖を食べていると言えませんか?
それに、量が少ない場合は記載しなくても良い場合があります。
特に怖いのは、「調味料
この「等」の中にも何が含まれているのですか?
どちらもの場合も、何が含まれているのか知る術がありません。
正に逃げ口上・保身の為の官の言葉です。
この世は拝金主義のため、「他人がどうなろうと知ったことか!」がまかり通っています。
我が身のみが大切の「今だけ、金だけ、自分だけ」の世の中です。
原材料について深く考えた事がない人は、一度、同じ商品(例えば、ポテトチップス)で比較してみて下さい。
会社により、どう違うかをよく確認してみて下さい。
そうすれば、自ずと答えは出てくると思います。
毒食って旨い旨いと笑って死ぬでないぞ。
愚か者ぞ。(P114)出典:大日月地神示「二十」2016年01月25日(P112)
悪食、癖にいたすでないぞ。
毒食らう癖、悪魔らにしつけられて、喜んで病になっておりますぞ。
人が造りた毒、危うい危うい。
悪魔らは人遣いてそこかしこに毒撒いて、皆々苦しめる仕掛け楽しんでおいでじゃ。(P118)出典:大日月地神示「二十一」2016年01月27日(P117)
身魂磨きせねば魔にやられ放題、案山子であるのぞ。
国の民、見てみよれ。
九割案山子ぞ。
毒食わされ毒吸わされ毒に囲まれておっても、金出して喜んでおいでじゃ。(P170)出典:大日月地神示「三十」2016年05月21日(P170)
添加物などの危険性などについて具体的に指摘している渡辺雄二 氏の著書を読む事をお薦めします。
今回の記事が、食生活を見直すためにお役に立つ事を願います。
読んでいただきありがとうございます。ご縁に感謝いたします。